2010年12月22日  チュニス〜シディ・ブ・サイド〜ローマ


  チュニス

首都チュニスは、人口約100万人、国の政治・経済・文化の中心地です。
7世紀に、アラブ帝国によってメディナ(旧市街)が建設され、現在も13世紀からの姿を残しており、世界遺産に登録されています。
19世紀には、フランスの保護領となり、新市街が造られました。
フランス風のカフェでは、大勢の人々がお茶を飲んでおしゃべりする姿が見られました。

チュニスではフリータイムとなり、各自、ばらばらに行動しました。
私と娘は、カフェでお茶を飲んだり、メディナのお土産屋さんを見て歩いたりしました。
通りには車も多く走っていますが、信号機や横断歩道はありません。
私たちが、道を渡れずオタオタしていると、通りすがりのチュニジアの男性が、「ガンバレ!ニッポン!!」と、日本語で声をかけて行きました。
この2010年に、南アフリカでサッカーのワールドカップが行われましたので、そんなときに聞いた言葉じゃないのかなと思いますが、上手いシチュエーションで使うもんだな、と感心しました。
チャラ男系のチュニジア男性ですから、これ以外にも、いろいろ娘に声をかけてきます。
「君の瞳はチュニジアの瞳だね♪」とか、「ミス・ジャパン!」とか、日本では考えられないようなキザなことを言い、投げキスまでしてきます。
娘が、ビデオカメラを構えて、撮影しながら街を歩いていると、向こうから来る男性が、自分からカメラにズームインし、笑顔を見せたり、手を振っていきます。
そうやって歩いていると、後ろから同じツアーの人に、「また、イケメン撮り(採り?)してますねぇ」と声をかけられました(笑)


ホテルから見るチュニスの街


官庁街


ベンアリ大統領の看板が掲げられている独立広場

独立広場前の大聖堂

フランス門

カフェ

フランス門から西に広がるメディナ(旧市街)は、アラブ世界で最も美しいメディナ
の一つと言われているそうです。
メディナには、たくさんのお店が軒を連ねています。
カゴ類がチュニジアの名産品のようで、鳥カゴを売っているのが珍しかったです。
ここでもすぐに、お店の外に立っていた男性が声をかけてきました。
「お店の屋上からいい写真が撮れる」と言って、店の中に引っ張り込んで、屋上まで案内してくれました。
屋上からは、モスクなど、メディナが一望できました。
帰国後、ネットで偶然、見つけたのが「週刊世界遺産」という雑誌。⇒⇒
その表紙が、この屋上の写真だったのです。
もしかしたら、彼は、「屋上の写真が撮れるよ」と言ったのかもしれません。

彼は、頼みもしないのに、スカーフを持ってきて娘にかぶせたり、その後、お店の中で、娘に民族衣装を着せてくれました。
着付けをすると、私に「写真を撮れ」と言います。きっと、これでチップを要求するか、何か買え、と言うんだろうなと思いましたが、何も売りつけてきません。
あとで「いくら払えばいいですか」と聞くと、「お金はいらない」と言います。
単に親切にしてくれただけなんだと感激したのですが、娘曰く、めちゃめちゃ、体を触られたそう。
もしかしたら、それが目当てだったのか、向こうからお金を貰うべきでした(笑)
イスラム社会は、親を大切にするので、母親の私が見張ってる前では、それ以上の事にはならず安心ですが。
娘がイスラム圏でモテるのも、母親と一緒にいて好感度が高いのかもしれません。

この当時、私は、アメリカのドラマ「プリズン・ブレイク」にはまっていて、主演のウェントワース・ミラーが好きだったのですが、ここで、ミラーそっくりの男性を発見。
「写真を一緒に撮ってもいいか」と聞くと、もちろんOKで、「自分にもその写真を送ってくれ」と言って、自分からメルアドを書いて渡してくれました。
その様子が、まるで私がウェントワース・ミラーにサインを貰ってるようだったと、娘が面白がっていました。


お土産屋さんの屋上とモスクのミナレット

雑誌の表紙になっていた屋上のアーチ

お土産屋さんのお兄さん

頼んでもいないのに民族衣装を着せられる娘

 

鳥かご

結婚式用バスケット

メルアドを書くミラー似のイケメン

水煙草を吸うコワモテのお兄さんたち

チャライかばん屋さん

勝手に娘を抱き寄せるアクセサリー屋さん

【チュニジア政権崩壊】  2011年1月15日

 大規模な反政府デモが続いている北アフリカの国、チュニジアのベンアリ大統領(74)が14日に出国、ガンヌーシ首相が暫定大統領に就任した。ガンヌーシ氏がテレビ演説で発表した。親欧米的な経済運営を行う一方、23年間にわたり強権支配を敷いてきたベンアリ政権は崩壊した。

 チュニジアでは昨年12月、中部シディブジッドで警察の取り締まりに抗議する若者が焼身自殺を図ったことなどをきっかけに、高失業率や物価上昇に不満を抱く市民のデモや暴動が拡大。ベンアリ政権の退陣要求に発展していた。

 ベンアリ大統領は今月13日の演説で、2014年の大統領選に再出馬しないことや、言論の自由の拡大や民主化の進展を約束し事態の収拾を図った。しかし、14日も多数の市民が大統領の即時退陣を求めて首都チュニスの内務省付近に結集、治安部隊との衝突を繰り返した。同日夜、全土に非常事態宣言と夜間外出禁止令が出されたが、統制がとれない状態となっていた。

 過去1カ月の暴動では、当局は23人が死亡したと発表したが、人権団体の調べでは、60人以上が犠牲になったという。

 軍部出身のベンアリ氏は1987年11月に大統領に就任。ブルギバ前大統領が創設した「終身大統領」の称号を廃して任期を3期までに制限し民主化を進める姿勢を示した。しかしその後、再選規定を改正して2009年には5選を果たしており、国民の間には高失業率などと相まって失望感が蔓延(まんえん)していた。

 在チュニジア日本大使館は、在留邦人186人(昨年10月時点)の安否確認を急いでいる。暴動やデモで邦人の負傷者はいないもよう。チュニスやその近郊には、日本からの観光客少なくとも約130人が滞在しているが、足止め状態となっている。


14日、チュニス市内で警察部隊と
市民の衝突であがる黒煙

15日、ベンアリ大統領の肖像が掲げられた
独立広場で治安維持に当たる兵士


  シディ・ブ・サイド


シディ・ブ・サイドは、チュニスから北東に17q、地中海に面した岬の丘の上にあります。
家々のチュニジアンブルーの窓枠やドアと、真っ白な壁が映える美しい街です。
ここでは、街を散策したあと、カフェ・デ・ナットという有名なカフェで、お茶を飲みました。

モスクと広場


白壁と青い窓と扉の家々


石畳の坂道


向うに地中海が見える


モスクとチュニジアの国旗

カフェ・デ・ナット

カフェ・デ・ナットの中

チュニジアンブルーの扉

各家で模様が違う

曲線の窓の格子

魔除けの手の形をしたドアノブ



ドアのノブは、手の形をしています。
これは魔除けで『ファティマの手』と呼ばれています。
お土産として、『ファティマの手』をかたどったキーホルダーが、どこでも売られていました。

「ファティマの手」のキーホルダー



今回の旅行の添乗員さんは、出発前の電話のときから、「アリタリア航空はトラブルが多い、スーツケースがちゃんと届くかどうか不安だ」というようなことを言っていました。
一応無事に全員のスーツケースが届き、帰りも紛失ということはなかったのですが、私のスーツケースのキャスターの1つが取れてしまっていました!
落したとかぶつけたとかではなく、車が轢いて、はさんで引きずったんじゃないかと思うぐらいの壊れ方です。
アリタリア航空に送って修理するということで、こんな状態のものがちゃんと直るのかどうか疑問だし、もう古いものだから修理されても使いたくない、弁償してもらう方がいいと思いましたが、添乗員さんは、「それが結構、上手く直すんですよねえ」と言います。
いくらなんでもこれは無理なんじゃないのと、半信半疑でしたが、戻ってきたスーツケースを見ると、まあ見事な修復ぶり。
キャスターの周りのプラスチックのつなぎ目とか全然わかりません。
もちろん日本で修理してるわけだから、日本人の器用さと職人根性に改めて脱帽しましたが、ちょっと口惜しい気持ちです(笑)

キャスターがとれたスーツケース

修理後

【チュニジアの「春」】  2014年1月31日 毎日新聞 (西川恵)

目立たない扱いだったが、26日、チュニジアの制憲議会が新憲法を採択したというニュースは注目されていい。アラブの民主化運動「アラブの春」のきっかけを作ったあのチュニジアである。

3年前、行商で一家を養っていたチュニジアの片田舎の若者が、販売許可を得ていないとの理由で警官に雑貨品を没収され、絶望のあまり焼身自殺した。その映像がネットで広がり民衆の怒りが爆発。独裁者ベンアリ大統領は国外に逃亡し、これを機にエジプト、リビアでも政権が崩壊、シリアでは内戦に発展した。

その後、エジプトやシリアの混乱を横目に、チュニジアでは制憲議会で2年余の議論の末、賛成200、反対12、棄権4の圧倒的多数で新憲法を採択したのだ。
憲法はイスラム世界で初めて信教の自由を規定したほか、男女平等、出版・表現・結社の自由、人権尊重、肉体的・心理的な拷問の禁止などを盛り込んだ極めて民主的な内容だ。採択されると議員たちは国歌を合唱し、国連事務総長の「チュニジアは改革を望む他の人々の模範である」との祝電が読み上げられた。

同国は2011年の民主化後、エジプトと同様にイスラム政権が誕生した。エジプトではイスラム政権と与党の非妥協的な振る舞いが軍部のクーデターを招いたが、チュニジアではイスラム政権と与党が野党と粘り強く話し合いを続けた。「信教の自由」にはイスラム政党内に強い反対があったが、最終的に党首が反対議員を説得した。
同国の野党幹部は「我が国のイスラム主義者たちは(信教の自由や男女平等などの)世論のコンセンサスを無視しては自分たちの将来はないと認識していた。社会と対立しても自分たちの主張を押し通そうとしたエジプトとの違いだ」と述べている。

加えてチュニジアの人々の柔軟性も挙げるべきだと私は思う。イスラム文化の周縁部に位置する同国の人々のアイデンティティーには、イスラムだけでなく、南のアフリカ、北の欧州の文化・文明が交錯する。イスラムのドグマに偏執しがちな中心部と異なり、ものごとを相対化する視線を持ち合わせている。

興味深いのはエジプト、シリア、イラクなど中心部に近いところで混乱が続く一方、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど文化の多重性を持ち合わせる周縁部の北アフリカでは、紆余(うよ)曲折をへながらも静かな国造りが続く。エジプト、シリアだけで「アラブの春」に失望感を抱くのは早すぎる。

【チュニジア革命から4年/深刻な失業、物価高】  2014年11月20日 毎日新聞 (秋山信一)

 中東の独裁政権のドミノ倒しを生んだ民主化要求運動「アラブの春」は間もなく発生から4年を迎える。先駆けとなったチュニジアの民主化プロセスは、23日の大統領選で一区切りを迎える。後発のエジプト、リビア、イエメン、シリアが混迷する中、中東民主化の「優等生」として期待を集めるチュニジアが、経済や治安に不安を抱えながらも前進する姿を追った。

 中東各国に波及した民主化要求運動「アラブの春」の発火点となった街にかつての熱気はなかった。10月下旬、チュニジア中部シディブジドの中心部は人通りもまばらだった。若者たちがカフェにたむろし、近くの飲食店は午後3時で既に閉店していた。「革命を誰かに盗まれてしまった気分だよ」。友人とエスプレッソを飲んでいた音楽専門学校生のセイフ・ジャファリさん(21)が肩をすくめた。

 「アラブの春」は、シディブジドで野菜や果物の路上販売をしていたムハンマド・ブアジジさん(当時26歳)が「無許可販売」を理由に地元政府に暴力的に摘発され、抗議のために焼身自殺したのが始まりとされる。地方政府の横暴への抗議デモは人口約4万人の地方都市から全国に拡大。23年続いたベンアリ政権はあっけなく倒れ、エジプト、リビア、イエメンでも独裁政権が崩壊した。

 デモ拡大の背景にあったのは、各国とも共通する若者の失業問題だ。チュニジアでも15〜24歳の失業率は30%を超え、富を独占する権力者への怒りに転化した。だが革命後、経済は上向くどころか低迷した。独裁政権の力の源だった警察組織が崩壊し、治安が悪化した。言論の自由が広がる半面、反政府デモが頻発。治安部隊との衝突も起き主産業の観光が打撃を受けた。

 「人口の2割は失業者。4年間で150人を雇用する乳製品工場が一つ増えただけだ」。ファストフード店を営むムラト・ファラハニさん(31)は嘆く。店では大卒の若者も月給300ディナール(約1万8500円)で働く。失業率は11年冬に18・9%で底を打ち、今春には15・2%まで回復したが、シディブジドのような地方都市にまで恩恵は及んでいない。ムラトさんは「教育を受けても能力を生かせる場がこの国にはない」と訴えた。

 失業とともに、不安材料となっているのが物価高だ。消費者物価指数は革命後に2割増加。国家財政引き締めで、食料や燃料への補助金が大幅に削減されたため、小売店では牛乳やパン、ガソリンなど生活必需品が50%以上も値上がりした。

 「アラブの春」の火付け役となったブアジジさんは、シディブジド郊外の墓地に眠る。白い墓石には「神が天国へお導きになりますように」と刻まれていた。住民によると、節目の時期に記者が訪れる以外に訪問者はほとんどいないという。沈みゆく秋の夕日に照らされ、墓石は静かにたたずんでいた。



【チュニジア革命から4年/民主主義定着へ正念場】  2014年11月22日 毎日新聞 (秋山信一)

 「民主主義が成熟した証しだ」。民主的憲法下で初めて行われた10月26日の議会選(定数217)。早朝から各地の投票所で列を作る有権者の姿に世俗(政教分離)政党ニダチュニス(チュニジアの呼びかけ)幹部は満足感を表した。投票率は憲法制定を担った制憲議会の選挙(2011年10月)を10ポイント以上超える69%に達した。

 制憲議会で与党の中核だったイスラム政党アンナハダ(再生)は69議席にとどまり、ニダチュニスが85議席と躍進。国民が治安や経済の安定化を実現できなかったアンナハダに「ノー」を突きつけた。

 しかし、国民の厳しい審判を受けた敗者のアンナハダは投票結果を受け入れ、ガンヌーシ党首(73)は「どの政党でもなく、チュニジア人の勝利だ」と高投票率をたたえた。選挙から3日後、ニダチュニス党首のセブシ元首相(87)は「尊敬に値する投票だった」と、満足感を表した。

 「アラブの春」で独裁政権が倒れた国では、民主化の理想に反して、武力が幅を利かせる現象が起きている。エジプトでは昨年7月、世俗主義の軍が民主的選挙で選ばれたイスラム政党出身のモルシ大統領(当時)をクーデターで追放。リビアやイエメンでは首都を制圧した民兵組織が実権を握る。選挙で決着をつけるチュニジアが「優等生」と評される理由だ。

 「ブルギバの存在が他国との違いを生んだ。独裁者だが愛国者だった」。地元シンクタンク・イスラム民主主義研究所のラドワン・マスムーディ所長(51)は、要因として初代大統領の名を挙げた。

 1956年にフランスからの独立を主導したブルギバ氏は政教分離を基本とし、教育振興や女性の権利拡大に力を入れた。後継のベンアリ政権時代も、非政府組織の活動や労働運動が一定程度容認された。革命後の13年にアンナハダと世俗政党の対立が激化した時、仲裁役を務めたのは独裁政権下で根を張ったチュニジア労働総同盟など市民団体だった。

 マスムーディ氏は「国民の一体感」も指摘する。日本の約4割の国土に約1100万人が暮らすが、大半はイスラム教スンニ派で、リビアやイエメンのような部族対立もない。

 ただ、革命後に表面化したイスラム主義と世俗主義の対立は選挙後もくすぶる。2大政党は混乱期を切り抜けるために連立を目指す意向だが、ニダチュニス幹部は「アンナハダが穏健さを装っているのは演技だ。イスラム国家化をあきらめてはいない」と敵意を隠さない。23日の大統領選挙を控え、政界の緊張は続いている。

【譲歩と妥協の精神】  2014年12月26日 毎日新聞 (西川恵)

 北アフリカのチュニジアは人口1100万人、面積は日本の約40%。資源も乏しい。この小国に世界各国から「チュニジア国民は歴史的偉業を成し遂げた」と祝意が寄せられている。21日の大統領選挙で世俗政党のカイドセブシ氏が当選し、新政権を担うことが決まったからだ。

 同国は2011年1月、市民の抗議運動で強権体制を倒し、アラブ各国に民主化運動が広がる「アラブの春」のきっかけを作った。あれからほぼ4年、各国の民主化が混乱や内戦で頓挫するなか、チュニジアだけが民主的憲法の採択(今年1月)、初の議会選挙(10月)と積み重ね、仕上げの大統領選出によって民主的体制を整えた。国際社会の高い評価は当然である。

 なぜアラブ諸国の中でチュニジアだけが民主化に成功したのか。一つは同国の人々の柔軟で温和な性格である。私は何回か同国を訪れたことがあるが、隣国のアルジェリアやリビアの人と比べて穏やかで、激高したり、怒鳴ったりする場面に出くわしたことがない。フランスからの独立でも、武力闘争になったアルジェリアに対し、平和的に達成(1956年)した。誇り高く、主張の強いアラブ人の中で、譲ることを知る国民である。

 二つ目に、独立後の初代ブルギバ大統領(57〜87年)が残した遺産だ。同大統領はイスラム教で認められていた一夫多妻制を禁止し、男女平等、宗教と政治の分離を基本に据え、曲折や負の側面はあったものの、大筋で30年間にわたり寛容でプラグマティックな政策を進めた。

 この統治で育まれた市民社会のコンセンサスが柔軟な国民性と相まって、強権体制崩壊後の民主化プロセスで発揮された。イスラム政権の非妥協的な姿勢が軍部の介入を招いたエジプトと対照的に、チュニジアのイスラム政権は野党と粘り強く話し合いを続け、国民の要求の強い「信教の自由」でも譲歩し、憲法草案に取り入れた。イスラム世界で初めてのことだった。こうして見ると、エジプト、リビア、シリア、イエメンなど、「アラブの春」が波及しながら挫折した国々では、譲歩と妥協と話し合いの精神が決定的に欠如していたことが分かる。

 ただ民主的体制を整えたとはいえ楽観はできない。チュニジアからも多数の若者が過激派組織イスラム国にはせ参じており、混乱が続くリビアからはイスラム過激派が国境を越えて侵入しているといわれる。これから民主主義の強じんさが問われる。

【ノーベル平和賞にチュニジア団体 民主化に貢献】  2015年10月10日 毎日新聞 

 【ロンドン矢野純一】ノルウェー・ノーベル賞委員会のフィーベ委員長は9日、2015年のノーベル平和賞を、チュニジアで13年にイスラム政党と世俗派の対立解消に貢献した国内の4団体からなる「国民対話カルテット」に授与すると発表した。中東の民主化要求運動「アラブの春」の先駆けとなったチュニジアで、その後の政治対立を対話で解消して民主化の進展に貢献した団体に授与することで、混迷が続く中東や北アフリカの「手本」となることに期待を寄せた。

 「国民対話カルテット」はチュニジア最大の労働組合である労働総同盟(UGTT)を中心に人権擁護連盟、工業商業手工業連盟(UTICA)、全国弁護士会の4団体(カルテット)で13年に結成した。チュニジアでは「アラブの春」の口火を切る形となった11年の「ジャスミン革命」でベンアリ独裁政権が崩壊したものの、イスラム政党と世俗政党の対立が13年に深刻化。国民対話カルテットは中立的な立場で仲介役を果たした。新憲法の制定や選挙管理委員会の設置などを定めた行程案をまとめ、挙国一致型の暫定政権樹立に成功し、14年の憲法制定や選挙実施で民主化に道筋を付けた。

 フィーベ委員長は授賞理由を説明する中で、チュニジアで深刻化した宗教や政党の対立は内戦の危機にあったと指摘し、「対話によって性別や政治信条、宗教に関係なく基本的人権を尊重した憲法を制定して民主的な選挙を行い、平和的な政権移行につなげた」と評価した。

 「アラブの春」は中東や北アフリカに波及したが、カダフィ独裁政権が崩壊したリビアや内戦に発展したシリアでは過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭。長期政権が崩壊したエジプトやイエメンも混乱が続いている。成功例とされるチュニジアでも今年3月には首都チュニスの博物館で日本人3人を含む22人が死亡したテロが発生し、6月にも北部スースのリゾートホテルで銃乱射事件が起き、38人が犠牲となっている。

 フィーベ委員長はチュニジアの治安が依然として不安定な状況であることを念頭に、「チュニジアにおいて民主主義を守る機能を果たし、中東や北アフリカにとどまらず、全世界で平和と民主主義の促進に取り組む人々を鼓舞することを祈っている」と授賞の意義を説明するとともに、中東全体の民主化を後押しすることに期待感を寄せた。

 国民対話カルテットを構成するUGTTのフセン・アバシ代表はロイター通信の取材に「チュニジアにとって大きな喜び、誇りであるだけでなくアラブ世界にとっての希望だ」と語った。
 チュニジアのカイドセブシ大統領はフェイスブックに「われわれはテロとの戦争に直面しており、団結しなければ勝つことはできない」と訴えた。

 潘氏は「アラブの春」について「大きな期待と共に始まったが、すぐに深刻な疑念が生じた」と指摘。チュニジアではカルテットが「国家の安定と統一性、公正さを追求する中心的存在であり続けた」とたたえた。

****************************************************

【社説:ノーベル平和賞 中東の和解への弾みに】

 中東の民主化要求運動「アラブの春」の先駆けとなった北アフリカのチュニジアで、政治対立を調停して解決に導いた4団体からなる国民対話組織に、今年のノーベル平和賞が授与されることになった。今回の授賞が中東各地で続く混乱の収束につながることを願いたい。

 チュニジアでは2011年1月、市民デモの圧力で23年続いたベンアリ独裁政権が倒れ、「ジャスミン革命」と呼ばれた。独裁政権への抗議運動はその後、エジプト、リビア、シリアなど中東各地に広がった。

 しかし、多くの国で民主化は成功せず、混乱が続く。エジプトではムバラク独裁政権が倒れた後、イスラム主義政党が政権を握ったが、国軍のクーデターで政権が崩壊した。リビアはカダフィ独裁政権の崩壊後、分裂状態に陥った。シリアではアサド政権と反政府勢力、過激派組織「イスラム国」(IS)の三つどもえの内戦が続いている。

 その中でチュニジアは、昨年1月に新憲法案が制憲議会で承認され、同10月の議会選、11、12月の大統領選を経て正式政権が発足した。今年2件の無差別テロが起きるなど治安面では不安も残るが、政治的には唯一の成功例と言える。しかし、道のりは決して平らではなかった。

 独裁政権が倒れた後に政権を握ったイスラム政党と、野党の世俗勢力との対立が深刻化し、13年夏に反政府デモが続いて政治危機に陥った。この時に調停役として尽力したのが今回の授賞対象となった「国民対話カルテット」だ。約70年の歴史を持つ同国最大の労働組合と、企業家組織、弁護士組織、人権組織の4団体が憲法制定や議会選へのロードマップを作成し、政治勢力間の対話による和解を導いた。

 ノーベル賞委員会は授賞理由で、イスラム勢力と世俗勢力が協力する成功例となったこと、市民組織が和解に重要な役割を果たしたことを挙げ、「中東・北アフリカで平和と民主主義の促進を追求するすべての勢力にとり励みになる」と称賛した。

 なお混乱が続くシリアやリビアなどの国民に向けても、国際社会の協力を得て平和と安定を導くよう激励のメッセージを贈ったと言えるだろう。

 欧州では今、中東やアフリカから紛争を逃れて今年だけで40万人を超える難民や移民が流入している。難民を生む原因の一つでもあるシリア内戦は、米露の対立で一層混乱が深まっている。
 今回の授賞は、こうした問題の根本的な解決には国民が主体となる和解の努力が不可欠だということを改めて指摘した。それを支援する国際社会の努力もまた問われているのは言うまでもない。

 


 


ローマ  チュニス〜カルタゴ〜スース  エルジェム〜マトマタ〜ドゥーズ  ショット・エル・ジョリド〜トズール〜山岳オアシス  スベイトラ〜ケロアン  ケロアン〜ドゥッガ  チュニス〜シディ・ブ・サイド  TOP








SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送