(クフ王のピラミッドとスフィンクス)  

 2003年3月8日  〜カイロ

【猛スピードのドライブ】

カイロに着いたのは、午後5時半頃。ギリシャとエジプトは時差がありません。
「ガイドさんがちゃんと来てるかしら」と4人とも疑いつつ飛行機を降りましたが、ゲートを出るといきなり、エジプト人男性に「ミセス**」と声をかけられました。
私の顔をまるで知ってるかのような呼びかけ方だったので、びっくり(笑)
エジプトはビザが必要で、その手続きを代行してやってくれる空港専門の係の人でした。
私に「ペンを持ってるか?」と聞き、私が貸したボールペンで4人分の書類を書きましたが、この人、3日後の出国のときも手続きをしてくれて、やはり私からボールペンを借りました。
なぜ自分が持っていないのか、フシギなんですよね。

外には、アミーラさんというエジプト人女性のガイドさんが待っていました。
アミーラさんは、小学生の子供が2人いるという、30代前半くらいの、顔と体型がちょっと曙親方に似た女性(スミマセン。)
乗るバスはギリシャと違って、かなりボロいマイクロバスです。
私たちは4人だけなので、今までいつも一番前の座席に座っていたのですが、このときも一番前に座ろうとすると、アミーラさんが、「二番目より後ろに座ってください」と言います。
そこから、カイロのはずれにあるホテルへ向けて走り出したのですが、いやもう、運転手さんの飛ばすこと、飛ばすこと!
広いハイウェイ(?たまに人も歩いている)でしたが、前に車がいると、パッシングしてあおりまくり、その車の脇すれすれにビュンビュン抜いて行きます。
私たちが「わぁ、こわい〜」「すっげえ、あおってる」とか騒いでいると、アミーラさんが振り返って苦笑しつつ「だから、お客さんは一番前に乗せないんです」と言うので、すごーく納得しました(笑)

【カイロの住宅事情】

夕日がちょうど沈んで行くときでしたが、太陽がとても大きい。
道の両側は、広々とした土地に椰子の木の林や畑が続き、また脈絡なくぎっしりと家が立ち並んでいるところもあります。
どの家も赤レンガで造られた何の飾りもない四角い箱という感じで、だいたい2階〜4階建てくらい。
不思議なのは、ほとんどの家が造りかけのように見えることです。
最上階のところから鉄骨がむき出しに上に伸びているままです。
「どうして、鉄骨が出たままなんですか」と聞くと、「エジプトでは、とても家が高い。お金をためると1階作って、また働いてお金ができるとその上の階を作るから。子供があとを作ることもある」ということでした。
アミーラさんが言うには、
「エジプト人は家の外にはお金をかけませんが、中を見たらびっくりしますよ。みんな、すごく豪華できれいにしてます」
ギリシャとエジプトと、これほど国民性の違いがはっきりしてることはありません。
エジプトの人は、家の見た目とか街の景観などということは、ほとんど考えないようですね。

途中から、ギザの三大ピラミッドが見えてきました。
初めて見たときは、やはりその大きさに驚き、感動を覚えました。
かなり遠くなのですが、まるで山そのものに見えます。
あれが自然の山ではなくて、人間の手で石を積み上げて造ったものだということが、驚異としか言いようがありません。
みんな、「でっかい!」「おっきい〜ね!」と感嘆の声をあげるばかり。
ホテルはギザの近くで、道路の向こう側はいきなり砂漠でした。
娘が「友だちに、砂漠と緑地帯の境目というのはどうなってるのか見てきて、と言われた」と言いますが、境目も何もなく、砂漠と緑地帯はただ隣あわせになってるだけです。

ホテルは広い庭にコテージのような客室がずらーっと建っているリゾートホテルでした。
中庭には大きなプールもあり、一応Aクラスのホテルなのですが、お湯が出ないことや、テレビが映らないことがあるから、部屋に入ったらまず確かめて、と言われ、アミーラさん自ら確かめてくれました。



(カイロ市内を流れるナイル川)


(ビルの向こうに見えるギザのピラミッド)


(山のようなのに建造物というのが不思議)


(緑地帯からいきなり砂漠になる)

【私もモモ】

まず、ホテル内にある両替所に行きました。
エジプトでは、だいたいどこでもドルが使えるということですが、「トイレのチップが必ず必要だから、小銭は用意してください」というアミーラさんの話で、5ドルだけ両替。
トイレのチップは1ポンドかその半分の50ピアストルでいいということで、1ポンドは25円ですから、カンノちゃんと娘が空港のトイレで10円上げたのは、ちょっと少なかったですね。
両替所にはおじさんが3人いて、例のごとくニコニコと娘に話しかけてきました。
名前は?と聞かれて、娘が「モモ」と答えると(ほんとはモモコなんですが、『外国人はモモコと発音しづらいようだから、モモにしてる』という娘の話です)、「オー、モモ? モモはエジプトではマザーのことだ」と言います。
私がしゃしゃり出て、「私は彼女のマザーだ。モモのモモだ」と言うと、オヤジギャグというのは万国共通なんでしょうか、このおじさんたち、ウケてました(笑)
1ポンドがどのくらいの価値なのかというと、学校の先生とか公務員の月給は200ポンドだそうで、これは5000円ですよね(安い!)
でも、カイロで生活するには、月になんとその4倍の800ポンド(2万円)かかるので、そのため、公務員はみな他にアルバイトをしてるんだそうです。
公務員の仕事は朝8時から、午後2時まで(短い!)
家に帰って昼食をとってから、午後3時からだいたい午前1時頃まで働いているとか(長い!)
タクシーの運転手とか、レストランで働く人が多いそうです。
いやこれは、大変なことですね。



(夜のホテルのプール)

【ストーブとバスルーム】

もうすでに夕食の時間です。
カイロ市街から車で30分くらい(それも、飛ばしに飛ばして)のところにあるホテルですから、アテネのように街に食事に行くこともできません。
タクシーは、乗る前に必ず料金の交渉をしてから乗るようにということで(現地の人もそうするそうです)、そこまでやれる自信はありません。
ホテルには、イタリア料理、フランス料理、レバノン料理の3つのレストランがあったので、そこで夕食をとることにしました。

私はレバノン料理に興味があったのですが、娘がイヤだと言うので、結局イタリアン。
プールのそばにあり、オープンテラスなので寒いです。
背の高いフロアスタンドのような、上で火が燃えている石油ストーブがそれぞれのテーブルの脇にあります。
このかがり火型のストーブ、アテネのカフェレストランにもありましたが、暖かい空気は上に行くことを考えると、どうしてこんな形なの?と疑問です。
他にお客は2組だけで、とても静かでした。
隣に、年配のエジプト人のご夫婦が、向かい合わず並んで座っていて、ほとんど会話もせず、お茶を飲み煙草を吸っていました。
ギリシャでも思いましたが、カフェやレストランでは、異性、同性にかかわらず二人組は、だいたい並んで座っていますね。
そのご夫婦、黙っていても同じタイミングで煙草を吸って、仲は良さそうな雰囲気です。
奥様の方が、終始にこにこと私たちを見ていましたが、なぜだったのかしら。
月と星を見ながら、ワインも飲んですっかりいい気分になった私たちでした。

部屋はお湯は出ましたが、シャワーの支柱や蛇口がこわれていて、バスルームの壁に隙間があり、少し外が見えるのが、エジプトらしい?(笑)
歯磨きの口をゆすぐのも、水道は使わない方がいいとも聞いていたので、アテネで買ってきた水でゆすぎました。
過剰防衛かな(笑)とは思いますが、ピラミッドを見るまでは、絶対おなかをこわしたくないですからね。

(ギザの3大ピラミッド、カイロ市街も見える)


 2003年3月9日  カイロ〜ギザ

【真面目なアミーラさん】

夜中はかなり寒くて、私は1時間おきくらいに目が覚めました。
明け方、遠くに低い声で歌うような声が聞こえて、目を覚ますと5時半でした。
なんとなくお祈りのようだなあと思って聞いているうちにすっかり目が覚めてしまい、娘が起きるまでCDを聞いていました。

今日は、今回の旅のメインイベントとでも言うべき日です。
カイロ市内を観光してから、ギザのピラミッド、スフィンクスの見学、夜はナイル川のディナークルーズという予定。
ピラミッドを登ったり降りたりするということで、私も数年ぶりにはくジーンズにスニーカーという服装で出発。ミネラルウォーター、のど飴も持って、万全の態勢です。
これは、誰に言われたわけでもなかったのですが、持って行ったのは正解でした。
カイロ市内は埃っぽく、娘はのどがイガイガすると言うし、砂漠地帯ではこまめに水を飲みました。

朝8時、アミーラさんがホテルに迎えに来ました。
アミーラさんはカイロ大学を出たあと、京都の大学で2年間、森鴎外などの日本文学を勉強したと言います。お茶やお花も勉強して、お花は池坊の師範の免許まで持ってるそうです。
それから、ドイツにも2年留学したといいますから、相当なエリートで、勉強家でもあるんでしょう。
ガイドになったのは、イスラム文化を正しく外国の人に伝えたいから、とのことで、とにかく真面目で熱心。ガイドさんというより、学校の先生に引率されているような感じでした。

【背中もダメ】

まず、イスラム地区にあるシタデルへ。
ここは、1176年に建てられた城砦です。
城壁の中にはいくつもの建物がありますが、その中のモハメド・アリ モスクを見学しました。
ギリシャのエギナ島の修道院と同じく、ビザンチン様式の建物で、ドーム状の屋根が光り輝いています。
とんがった鉛筆のような塔はミナレットと言って、この上から周囲の人に「礼拝の時間ですよ」と呼びかけるために造られたものです。

聖域であるモスクでは、中庭から靴を脱がなければなりません。
肌を露出した服装もいけません。
私たちはみんな長袖の服を着ていたので、OKでした。
モスクの中に入って、まず4人とも絨毯の床に座らされて、アミーラさんの説明を聞きました。
すると、娘がいきなり背後から、グリーンのガウンをかぶせられてしまいました。
娘はびっくりして訳分からず、「No Thank You!」とか叫びましたが、股上の浅いジーンズをはいていたので、座ったら背中の肉が丸見えだったようです(笑)
ほかに、欧米の女性は年に関係なくタンクトップだったりするので、結構グリーンのガウンを着せられていました。 




(モハメド・アリ モスク)


(モスクの中庭と回廊)


(グリーンのガウン)


(モスクのシャンデリア)

【カイロの人は命知らず】

そこで、敬虔なイスラム教徒であるアミーラさんから、イスラムの教えやしきたりについて、はたまたコーランの一節まで詳しく教えられました。
礼拝は1日5回。
私が朝聞いたのは、やはり夜明けの礼拝のコーランだったようです。
アミーラさんのように仕事をしていて、その時間にお祈りができないときは、あとで3回分なら3回分をまとめてやるそうです。
アミーラさんの話を20分くらいは、聞いていたでしょうか。
だいたい、どこへ行っても、説明の方が長く、見学する時間の方が短いという具合でした(笑)

シタデルの城壁のところからは、カイロ市街が見渡せます。
建物はごみごみとして、全体に灰色っぽいかすみがかかっているような感じでした。
カイロの人口は1600万人! 人が多く、車も多いし、雨が降らないので、スモッグがかかっている状態なんでしょうね。
シタデルの外に出ると、たくさんの警察官が続々とやってきました。
軍隊かと思ったくらいで、今日は、アメリカのイラク攻撃に対する反戦デモがある予定なので、警備のために来ているとのことです。
警察官は黒の制服で黒のベレー帽、ほとんどの人が口ひげを生やしているので、なんだかみんなフセインのように見えます。

このあとカイロの中心部を通って、エジプト考古学博物館へ向かいました。
カイロの街の不思議なところは、信号が少ないことです。
道は広いのですが、歩道もあまりありません。
たくさんの人間が車のそばを歩き、信号がないので好きなところを、飛ばしている車の前後をぬって、平気で渡っています。
娘は、「私だったら、一生渡れない」と言っていました(笑)
車はどれもカーチェイスのように抜きつ抜かれつ、割り込みもすごく、片側2車線なのか3車線なのかもわからないくらい。
だから、やたらとクラクションがならされ、町中、プヮンプヮンと響いています。
気が弱い人、のろまな人は、カイロで運転するのは無理でしょう(笑)
だいたい、どの車も傷だらけ、へこんだまま。
ぶつかったり、こすったりは当たり前のような運転の仕方ですし、エジプトには車検がないので、車は壊れるまで乗るそうです。



【謎とロマンの宝庫】

エジプト考古学博物館は、かの有名なツタンカーメンの黄金のマスクを始め、エジプト5000年の歴史の遺産が12万点以上も展示されています。
あまりにも収蔵品が多く、まるで倉庫のようです。全部を見たら、1日あっても足りないでしょう。
アミーラさんが「たくさんありますので、まず、私の好きなところをご案内します」と、どうもほかのガイドさんとは一味違うように思われるところ(だって、見ている人が、われわれ以外いないんですもの(笑))を案内してくれました。
彼女は、ヒエログリフ(象形文字)の愛好家らしく、それが書かれた石の壁のところで、これはこっちから読むとか、これはこういう意味だとか、かなりくわしく熱心に説明してくれました。
ほかの有名な石像のところでも、「これが何々王だということがわかるのは、ここに王の名前が書かれているから」とか、必ずヒエログリフの説明をします。



(カフラー王の像)


(夫婦像)
 


あと、彼女が「これが、この博物館のマスターピースだと思います」と言って連れて行ってくれたのは、カフラー王の像
一応有名なものではあるけれど、ガイドブックなどでは、特に大きい写真は載ってません。
アミーラさんの個人的見解でマスターピースと言っているようですが、これは私も前から興味があったものでした。
閃緑岩で造られた4500年前の像(高さ1m68cm)なのですが、この閃緑岩というのは石の中で最も硬度が高い石です。
ダイヤモンドで彫るか、現代だったらレーザーを使いますが、4500年も前にいったい何を使って彫刻したのか未だに解明されていないそうです。
そんな硬い石なのに、腕や足の筋肉が非常に写実的で均整のとれた見事な像です。
古代エジプトのダヴィンチ作と言われる所以ですね。
いわゆるオーパーツ(その時代にあり得ないはずの工芸品の遺物)ではないでしょうか。
「この頃、日本はどういう時代だったの?」と娘が聞くので、「縄文時代よ。まだ縄を使って模様入りの土器を作ってた程度なんだから」と言うと、「それを聞くと、エジプトってほんとにすごいと思う」と心底驚いた様子でした。

彫像はカフラー王の像だけでなく、どれも逆三角形のウェストの引き締まったナイスバディばかりです。腹筋も割れていて、この時代のファラオたちは筋トレでもしていたのでしょうか(笑)

エジプト美術史上、最も美しいと言われているラヘテプとネフェルトの夫婦像は、驚くほど鮮やかな色彩で、4500年前に塗られた色とは到底思えません。

ツタンカーメンの秘宝といわれる数々の装飾品や家具は、やはりほんとうに素晴らしいものです。
黄金と宝石が惜しげもなく使われていて、まさに豪華絢爛です。
ツタンカーメンが若くして死んだ王だというのも、乙女心(?)をくすぐりますよね(笑)
有名なラムセス2世などのミイラが11体もあるミイラ室は、また別料金(40ポンド)を払って入ります。ミイラは私の得意分野ではないので、ここはろくろく見ずに大急ぎで出てきてしまいました。

外に出ると、博物館の前庭は大勢の観光客でいっぱいでした。
また修学旅行でしょうか、エジプトの田舎の小学生といった感じの女の子たちが、私と娘が座っていると、何人もとりまくように寄ってきました。
外国人が物珍しいらしく、「何人?」と聞くので、「日本人だ」と言うと大騒ぎです。
私には、サインしてくれとノートを突きつけてくるし、娘は顔や頭をさわられまくり。
珍獣あつかいですね(笑)
ノートを見ると、欧米の人の名前がサイン(?)してあったので、私はおせっかい心で漢字を書き、「これが日本の文字よ」と教えてきました。
この子たち、私程度には英語がわかるらしいので、あとでアミーラさんに聞くと、エジプトでは小学校から英語を教えているそうです。


(ツタンカーメンの黄金のマスク)

(ツタンカーメンの玉座)

(エジプト考古学博物館の正面)



【エジプト料理とトイレ事情】

また、ハイウェイを猛スピードで走って、ギザに着きました。
ピラミッドの見えるレストランで、昼食です。
お店の前で、ひらべったいパンを焼いていて、いきなり手渡されました。
お料理は、エビやイカのフリッターと、テラピアという川魚をグリルしたもの。
このエビとテラピアがとても美味しくて、付け合せのライスも美味しい。
焼きたてのパンにタヒーナというゴマのペーストをつけて食べると美味しかったです。
デザートは丸ごとのオレンジでした。
お水を頼むと、1リットル入りのボトルがでんと置かれるので、残りはしっかり持ち帰りました。

食べ物の話のあとでナンですが。、私はここで初めてエジプトのトイレに入りました。
なるほど、トイレには意外に若い女性がいました。
ずっとそこに住んでいるような雰囲気で(笑)、携帯で電話していました。
チップと引き換えに、トイレットペーパーを1回分くらいに切ったものを渡してくれます(これ以上必要だったら、どうするのかしら?(笑))
水洗ですがペーパーは流してはいけません。
脇の箱に捨てますが、これは初めは抵抗を感じますね。
そして、小さなシャワーみたいのがありました。
あとでアミーラさんに、「あのシャワーはどう使うのか?」と聞くと、「イスラム教徒はお祈りをするとき、きれいな体じゃないといけないから、あれでお尻を洗うのだ」と言います。
手動のシャワレットだったわけですね。
ホテルのトイレにもありましたので、私は1度試してみましたが、お水ですから「きゃっ」と言うほど冷たいです(笑)


(クフ王のピラミッドの巨石)


(らくだ屋さんの父親と息子)


(メンカウラー王のピラミッドの入口)


(カフラー王のピラミッドの河岸神殿)


(カフラー王のピラミッド)


(言うまでもなくスフィンクス)

【マダーム、シアワセ?】

いよいよ、三大ピラミッドの中で一番大きいクフ王のピラミッドの見学です。
ここがまた、何台もの観光バスが止まっていて、観光客でごった返していました。
次々と、お土産の売り子が声をかけてくるのも、アクロポリスと同じ。
アラビア語で、『ノー』は『ラ』、『サンキュー』は『シュクラン』ですから、私たちは「ラ シュクラン!」と言いっぱなし。
この言葉だけはしっかり覚えてしまいました(笑)
近くには、ホテルやレストランがたくさんあるし、カイロの街並みも結構近くに見えます。
広い砂漠の中にピラミッドだけが忽然と立っているというようにイメージしていた私たちは、かなり期待を裏切られた感じでした。
とにかく巨大で、積んである石ひとつが私の背丈くらいあります。
こんな大きな石をどうやって切ったのか、これをどんな方法で積み上げたのか、なぜ完璧な四角錘なのか、などとということは、いくら学者の説があってもやはり謎にしか思われません。

ラクダの商売のおじさんたちが、群がってきます。
私たち4人とも、当然乗ってみました。
カンノちゃんが、ギリシャではジーンズだったのに、今日はなぜか膝丈のスカートをはいてきたので、ラクダにまたがるとかなりあられもない(笑)
「きわどい?」と聞きながら、一生懸命スカートのすそをひっぱっていますが、やっぱり変わった子です(笑)
話に聞いていたように、ラクダの背中はかなり高く、また立ち上がるときに前後に大きくゆれるので、しっかりつかまってないと転げ落ちそうでコワイ。
また歩きだすと上下に大きくゆれて、これで砂漠を旅するのは相当つらそうです。
ラクダに乗るのもラクじゃない、ですね。
私と娘が乗ったラクダ屋さん(?)は父親と中学生くらいの息子の親子でした。
アミーラさんが言うには、エジプトでも中学までは義務教育だけれど、学校へ行かせずに子供を働かせている親も多いということです。
私のラクダは、その男の子が引っぱっていたのですが、途中何度も振り返りつつ話しかけてきます。
「マダーム、シアワセ? マダーム、シアワセー?」と言い、英語で言うAre You happy?の直訳だろうとは思いましたが、なんか変(笑)
最初は「幸せよ」と言ってましたが、余り何回も聞くので、「そんなには幸せじゃない」とか私は答えてました(笑)
そのうち、その子は急に父親と離れた方へ歩き出しました。
そして今度は、「マダーム、チップOK? マダーム、チップOK?」と聞きながら、どんどん遠くへ行くので、しょうがない。「OK! OK!」と言うと、やっと戻りました。
乗る前にアミーラさんに、「二人分で5ポンドあげればいいですよ」と言われていたので、その子に5ポンドあげると、父親がやってきて、「金をくれ」と言います。
「今、あの子にあげた」と言うと、父親が子供に怒ってお金を取り上げていました。
どうやら、父親に内緒でチップをもらおうとしてたんですね。

またバスに乗って、少し走って1番小さいメンカウラー王のピラミッドのところに行きました。
3つのピラミッドは写真で見ると、くっついて建っているように見えますが、それは余りにも大きいからそう見えるだけで、実際は結構離れて建っているのです。
スフィンクスもそうです。
クフ王とカフラー王のピラミッドは、今は内部は公開していないので、メンカウラー王のピラミッドの内部を見学しました。
入口から玄室までは、30mほど下ります。
通路は、狭くて高さもないので、ずっと身をかがめてなければいけません。
曙親方のアミーラさんは、ちょっと苦しそうでした。
玄室というのは、全く何もない小さな石の部屋でした。
壁に装飾もヒエログリフも何もありませんから、ピラミッドは王の墓ではないだろう、とアミーラさんは言ってました。
でも、壁に街でよく見かけるようないたずら書きがしてあったのには、驚きました。
この世界的遺跡にいたずら書きするのは余りにも非常識だけど、それをすぐに消さずにおいてあるのもお国柄?

【ひなたぼっこするスフィンクスの謎】

カフラー王のピラミッドは、ピラミッド・葬祭殿・河岸神殿・スフィンクスがセットになったピラミッド・コンプレックスが現存しているものです。
カフラー王のピラミッドの最上部には化粧石が残っていて、帽子をかぶっているような姿でした。
ピラミッドは石を積み上げた外側を、滑らかに磨いた化粧石で覆っていたそうで、太陽の光を反射して光り輝いていたと言いますから、その壮大さは想像を絶するものだったでしょう。
宇宙人の目印という説もありますが、砂漠の中の灯台のような役目を果たしていたかもしれませんね。

かつては、ここにナイル川が流れていて、ピラミッド建設用の石を船で運んできたそうですが、その川岸に建てられているので河岸神殿と呼ばれている神殿跡の中を通り抜けると、スフィンクスのそばに出ます。
青空の下で見るスフィンクスは、神秘的な遺跡というより、大きなねこがのんびりとひなたぼっこしているように感じられました(笑)
カフラー王の時代(紀元前2500年位)に造られたとされるスフィンクスですが、雨で侵食されたあとがあるから、本当に建造された時期はエジプトに雨が降り続いていた紀元前1万年以前だという説があります。
すると、いったいスフィンクスは誰がつくったことになるのか、そこで今の人類の生まれる前に高度な先史文明があったという説が生まれたわけですが、私は「神々の指紋」を読んで以来この説の支持派です。
アミーラさんに、「こういう説をどう思いますか」と聞くと、彼女は「ヒエログリフに書かれているのだから、5000年前に造られたのが事実だ」と答えます。やっぱりヒエログリフ信奉派ですね(笑)
私は、書かれたものが全て真実とは限らないと思うんですけどね。
記録ではなくて神話のようなものと考えることもできるんじゃないかしら。
事実、スフィンクスがカフラー王より古いクフ王の時代にはすでに存在していたという記述が見られるインベントリー石碑というのもあるようですね。

【カルトゥーシュ】

このあと例によって、トイレと飲み物付きのお土産屋さんです。
今回は金製品のお店でした。
古代にヒエログリフで王の名前を書いたものをカルトゥーシュと言いますが、今は、その人の名前を彫りこんだ金のカルトゥーシュをペンダントにしたものを、お守りのように身につけるのが人気のようです。
アミーラさんも、家族全員、自分のカルトゥーシュを持っていると言っていました。
その金製品のお店でも、まず、こっちの名前をアルファベットで書かせて、そのヒエログリフを書いてくれます。
そして、それを彫ったのを買え、という具合になっています(笑)
ヒエログリフが可愛いし、金のペンダントも欲しくなって、バッグから老眼鏡を取り出した瞬間、娘に「また! お金がないんだからね!」と素早く止められました(笑)
「あ、はい、やめときます。」と素直に老眼鏡をしまった私、キッペイくん、カンノちゃんにまた笑われてしまいました。




(ヒエログリフ)
 




【ナイル川の夜】

夜7時から、ナイル川のディナークルーズです。
旅行社のパンフレットに、少し改まった服装にしろと書いてあったので、キッペイくんはスーツ、カンノちゃんはワンピースをわざわざ持ってきたと言います。
根が真面目な二人なんですね、なんかカワイイ(^-^)
「着ようかどうしようか」と迷っているので、「せっかく持ってきたんだから、着なさいよ。そういう経験もいんじゃない」と私は勧めました。
娘は何も用意してこなかったので、一番おしゃれっぽい白のパンツにして、私はスカートにちょっとドレッシーなインナーにカーディガン。
シャワーを浴びて、お化粧もしなおします。
旅に出てから、なんだか日に日に肌がつるつるになってきた私、化粧のノリもバッチリ(笑)
娘は逆に、肌はガサガサ、髪もパサパサになってきたと言います。
どうやら私には、日本よりギリシャ・エジプトの水が合うらしい。



(ゴールデン・クルーズ)


(スーフィダンス)


(ナイル川の夜景)
 
船は外見も内部も古代エジプト風の装飾です。
入口に立っているおじさんもファラオのような格好をしています。
ほかの各国の観光客も一緒でしたが、かなり空いていました。
私たち4人とも、カクテルを頼みましたが、アミーラさんも同じものを飲みました。
イスラムの戒律ではお酒は飲めないはずなのに、娘が「飲んで大丈夫ですか」と聞くと、なんのことはない、カクテルと言ってもジュースだけのカクテルでした。
ここでは、ベリーダンスとスーフィダンスのショーを見せてくれます。
ベリーダンスは、ご存知のとおり腰をくねらせるセクシーなダンスですが、よくテレビで見るような激しく腰を動かすものではありませんでした。
ダンサーは若いとびきりの美女。
彼女が若いせいなのか、はたまたそういう流派なのか(流派というものがあればの話ですが)、意外と優雅な踊りでした。
スーフィダンスというのは、男性ダンサーが何枚もの色とりどりのスカートを重ねてはいて出てきます。
そして、30分間くらい、ただひたすら回り続けます。
円形のスカートですから、回れば広がり、何枚ものスカートがいろいろな形に見えます。
また、途中ではずしたスカートを頭上で回したりもします。
その間もダンサーはずっと止まらず回り続け、この強靭な三半規管にはびっくりです。

船は2時間かけて川を上り、また下ってきます。
ゆったりと流れるナイル川は、船が動いているのを感じさせませんでした。

食事のあと甲板に上ると、カイロの街の明かりが美しく見えます。
黒々とした空には小さな半月が光っています。
これまた最高にロマンチックな雰囲気で、私が「娘と来るなんてもったいない〜」と言うと、娘も「こっちこそ!」と言い返しました(笑)

(ダハシュールの砂漠に立つ屈折ピラミッドと黒ピラミッド)  


 2003年3月10日  ダハシュール〜メンフィス〜サッカラ

【砂漠の風の音】

カイロから、ナイル川を少しさかのぼって行くと、メンフィス、サッカラ、ダハシュールの町があります。
まず一番遠いダハシュールへ行きました。車で1時間くらいです。
例によって、運転手さんはガンガン飛ばして行きますが、私たちもすっかり慣れてしまいました(笑)

ダハシュールは町というより村でしょうか。
椰子の木の林や畑が続く、全くの農村です。
椰子の木の葉で葺いた屋根の家もあり、パンが地べたに積まれて売られていたり、食用の鶏は店先に生きたまま売られていました。
子供たちも、親の手伝いをして働いています。

狭い村の道を抜けると、いきなり砂漠でした。
しばらく砂漠の道を行くと、赤ピラミッドに着きました。
すぐ隣は軍事練習場とのことですが、あまりにも広大で建物のようなものは見えません。
車に乗ったまま、赤ピラミッドの入口と反対側に回りました。
そこは、360度見渡す限り砂漠です。
はるか彼方に、途中から傾斜角度が変わっているため屈折ピラミッドと呼ばれるピラミッドと、もう形が崩れてしまっている黒ピラミッドが見えるだけ。
私たちのほかには一台の車もありません。
どこからか、ラクダに乗ったツーリストポリスがやってきました。
97年の日本人旅行者襲撃事件以来、観光地では必ずツーリストポリスが警護してくれるそうです。
アミーラさんは車に戻り、二人のポリスと私たち4人だけが砂漠の中に立っています。
これこそ、思い描いていたピラミッドのイメージでした。
「ピラミッドを見ると人生観が変わる」という言葉を聞いていましたが、ギザのピラミッドはあまりにも俗化されていて、人生観が変わるほどの感動は得られようもありません。
ここはまさに、5000年の時空を超えた場所です。
私は、「やってみたいことがあるんだ」と娘に言って、砂の上に寝ころんでみました。
驚いて「よごれちゃうよ」と現実的なことを言う娘(笑)
目を閉じると、耳元で風の音だけがします。
ほとんど風は吹いていないのですが、静寂の中に風が流れて行く音が確かに聞こえます。
頭の中がぽかんと空っぽになったような気がしました。
時だけが風と共に流れていく。
その中に、自分はただ存在しているだけ。
自意識も何もない、無我の境地とでもいうような感覚でした。
ピラミッドを古代の王が造ったものだとすれば、この果てしない砂と空の中に自分が存在している証として造ったのでしょうか。
サン・テグジュペリの「星の王子様」に『砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ』という言葉がありますね。
でも私は、この叙情的な言葉は砂漠にそぐわないと思いました。
砂漠は完璧に無の空間で、そこに絶対的な強さを感じました。

いつまでも、そこにいたかったけど、アミーラさんに促がされて車に乗り、赤ピラミッドの入口に行きました。
赤ピラミッドは、ギザのピラミッドのクフ王の父スネフル王が建てたもので、正四角錘の真正ピラミッドとしては最古のものです。
石が赤いので赤ピラミッドと呼ばれています。
屈折ピラミッドもスネフル王が建てたものですが、屈折ピラミッドが失敗作だったので、またこれを建てたんでしょうか(笑)


(360度砂漠)


(砂漠に寝ころぶ私)


(赤ピラミッド)


(赤ピラミッドの内部から入口を見あげる)


(赤ピラミッドの入口)

 
いつものように、アミーラさんがこういう説明を長々としたあと、「10分間自由行動にしますから、ピラミッドの中に入りたければ入ってください」と言います。
きのうのメンカウラー王のピラミッドの中は30m降りて行ったのですが、赤ピラミッドは60m降りるということです。
たった10分じゃ無理!と思ったし、60mをかがんだまま上り下りするほどの若さはないので、私は入りませんでした。
入口までは登ってみましたが、かなり高いところにあります。
娘もキッペイくんたちも、「キツかった〜」とハアハアして戻ってきました。
中は全く何もなく、空気が臭かったそうです。5000年前の空気の匂いでしょうか。



【美男の巨像と美女のスフィンクス】

メンフィスは古代エジプトの最初の首都です。
かつては「白壁の都」と言われ栄えたところですが、今はその遺跡だけがあるのどかな農村でした。
広大なプタハ神殿跡には、アラバスター製のスフィンクスや、ラムセス2世の巨像などがあります。
ラムセス2世の巨像は、膝から下が失われているので、建物の中に横たわって展示されています。
体長は15mもあり、まるでリリパット国に流れ着いたガリバーのようでした。
これほどの大きさですが、くっきりとした唇が美しく、二の腕やももの筋肉もリアルで見事な彫刻です。
こんな大きな像を彫るには、高い足場も必要だろうし、遠くから確かめなければバランスも取れないだろうし、巨大な体の表面がなめらかに磨きあげられてるというのも不思議です。
アラバスターで造られたスフィンクスは優しいきれいな顔をしていて、ハトシェプスト女王の顔を模したものではないかと言われているそうです。
アミーラさんは、きのう見学したことを私たちに質問して、答えられないと(みんなだいたい忘れちゃってる。)、「悲しいです〜ボロボロ」と涙を流す真似をして復習させます。
とても厳しい先生です。
「三位一体はどういう字を書くか知ってますか?」などと、エジプト人に日本人が試されるのもおかしな感じでした(笑)


(アラバスター製のスフィンクス)

(ラムセス2世の巨像)


【絹のカーペット】

メンフィスの死者の町として、たくさんの墓のあるサッカラ
そこに世界最古のジェセル王の階段ピラミッドがあります。
階段状で、左右も対称ではありません。
最初に作られた小さいピラミッドに石を継ぎ足して、大きくしたのではないかと言われています。
下のほうはかなり崩れていて、石と石の間に無数の鳩がとまっていました。
ちょうど鳩の巣箱のようになっています。
ここは観光客が多く、もちろんお土産屋さんも多く、また「ラ シュクラン」を連発するはめになりました。
柱廊の中で、アミーラさんが長々と熱心に説明していると、エジプトの小学生の男の子たちがやってきて、私たちを取り巻きました。やっぱり、日本人が珍しいと見える。
口々にわーわー言っているのに、引率の男の先生は注意もしません。
アミーラさんが何か一喝すると、やっと去っていきました。


(ジェセル王の階段ピラミッド)


(柱廊)


 


サッカラはカーペットの産地としても有名で、カーペットスクールがあります。
小学生・中学生の子供たちがここでカーペットの織り方を習い、作品を売って家の収入の足しにしているそうです。
小さな女の子が、指だけ使って目にも留まらぬ速さでさまざまな色糸を織りこんで、複雑で美しい模様のカーペットを織っていました。
絹のカーペットはとても綺麗で手触りも良く、欲しくなりましたが、とんでもなく高いので当然買えません(笑)
日本語のしゃべれる男性がいて、「北海道にいたことがある」などと言います。
私たちが母娘だと言うと、「ほんとですか? ほんとですか? お母さん、若いです!」と言うので、買わせるためのリップサービスとはわかっていても私はご機嫌(笑)
「エジプトの男性はやさしいですね」と言うと、「そう、男性はやさしい。でも、エジプトの女の人はみんなこわい」と言うのがおかしかったです(笑)

昼食は、カイロに戻って、中華料理のお店で食べました。
そのお店で、SMAPやELTの曲がかかっていたので、ちょっと驚きました。
若い3人は、気づいていないようでしたが。






(エル・フセイン モスク)


(ハン・ハリーリの入口)


(ハン・ハリーリの通り)
 
【バザールでござーる】

昼食後はハン・ハリーリ市場へ行きました。
エル・フセイン モスクの隣がハン・ハリーリです。
迷路のような細い道の両側には、小さなお店がぎっしりと並んでいます。
アミーラさんが、買い物の仕方についていろいろ教えてくれました。
カードは使わないこと、金製品は買わないこと、向こうの言い値は半分くらいに値切ること、ただしあれこれ品物を出させて買わないと怒リ出すことがある、などなど。
アミーラさんは、ハン・ハリーリの入口のカフェで待っていると言うので、4人だけで中へ入って行きました。
1歩あるくごとに、「コンニチワ!」「ヤマモトヤマ」「バザールでござーる」(市場だけにね)などと声をかけてきます。
何年も前のCMだけれど、その頃教えたおバカな日本人がいたんでしょうね。
ちょっとでも立ち止まると、わーっと寄って来て、「これはどうだ」「これを買え」という感じなので、ゆっくり品物を見ることもできません。

硝子の香水瓶が欲しかったのですが、あきらめました。
すごく壊れやすいらしいので、壊れずに持ち帰れるかどうかもわからないし。
ちょこっと歩いただけで、すぐ戻ったら、「何も買わないんですか」とアミーラさんが呆れています。
「あんまり寄って来るから、こわくて買えない」と言うと、「大阪の人は、値切って喜んでいっぱい買ってきますよ」と首をかしげていましたが、千葉県人の私はできないんですよね(笑)
キッペイくんたちも、すぐに戻ってきて、ここは1時間も時間がとってあったので、迎えのバスが来るまで、路上のカフェでお茶を飲みました。
あとで、アミーラさんに付いてきてもらって、娘は会社の人のお土産用にお菓子を買いました。
どういうわけかアミーラさんが「この店は定価どおりだから、値切ってはいけない」というので言い値で買いましたが、帰国するときカイロ空港のお土産品のお店で、同じものを半額で売っているのを発見。
「やっぱり、ぼったくりだった〜」と、娘はとってもガッカリしていました。


【カイロのリッチとは】

また、人と車がひしめき、クラクションがプヮンプヮンと鳴り響く、街中を通ってホテルに戻ります。
大使館などが多い官庁街には、機動隊が終結していました。
女性の姿はあまり見かけず、街を歩いているのはいかにもキャリアウーマンと言った感じの女性です。
普通の服でも、スカーフで頭を包んでいる人が多いですね。
若い女性はカラフルな柄のスカーフの人もいますが、年配の女性は黒いスカーフです。
アミーラさんも、40才になったらスカーフをするつもりと言っていました。
男性が何人もかたまって、ただ立っている姿はよく見かけます。
井戸端会議ならぬ道端会議でもしてるのでしょうか(笑)
カイロの街並みは、歴史ある建物と新しい建物が混在していて、とにかく雑多な印象でした。
洗濯物は、時間に関係なく、ただ窓の外にぶら下げてあります。
雨が降らないのですから、どんなふうにしてても、乾いてしまうんでしょうね。
アミーラさんが「このへんは高級住宅街です」と言うナイル川に面したところは、もちろん鉄骨などむき出しになっていない、白い外壁の美しい住宅が並んでいました。

失業率も高く、給料の安いエジプトでは、海外に出稼ぎに行く人も多いとのことです。
何年か働いて帰ってくると、立派な家を建て、お金は銀行に預けて、それで一生食べていけるそうです。
エジプトの金利は、なんと10%とのこと。日本の100倍近い高金利ですよね。
私も、今持っている貯金を全部ポンドに替えてエジプトの銀行に預けカイロで暮らせば、働かなくても何とか生活できるかもしれない。
このまま仕事が見つからなかったら、そうしようかしら(笑)
ただし、政権が代わったりでもすると、全部ただの紙切れとなる危険があるとか。

(カイロ市街)  


 2003年3月11日・12日  カイロ〜バンコク〜マニラ〜成田

【帰りは長かった】

カイロで3日目の朝、またお祈りの声で目が覚めました。
毎日、コーランを聞きながら目覚めるのは、何かとても気持ちがよかったです。
まだ5時半なので、しばらく聞いていると自然に2度寝ができます。
シーツの中で足を動かすと、かかとがガサガサしません。
なんと、10数年も固くなった鏡餅状態だったかかとが、若い頃のようにすべすべになりました。
これはカイロの水のせいなのか、ピラミッドパワーなのか(笑)
逆に娘は、カサカサになっていた顔に湿疹までできて、「超〜最悪〜」と落ち込んでいました。
アトピー体質なので、アトピーが出てしまったようです。
カンノちゃんも、きのうから喉が痛いと言っていて、風邪ではなさそうですので、これは埃っぽい空気が合わないのでしょう。
若い子はかよわい、フィフティズはたくましい(笑)
私はいつも食べない朝食も、旅の間は決まった時間にしっかり食べました。
その日動き回るパワーを蓄えなければいけないと思ったからです。
そのせいか、普段不調な腸も快調(快腸)♪
朝食はバイキングのヨーロピアンスタイルでしたが、生野菜は食べず、ハム・ソーセージはあまり好きではないので、とにかく小さな菓子パンばかり4つくらい食べていました。
このホテルだけでなく、エジプトでは、パンやケーキが美味しかったです。
お米も美味しいので、穀類が美味しい国なのだと思いました。
グリーンピースなどの豆類も日本より美味しい。
「かつてはナイル川が氾濫すると、いい土が上流から流れてきて、肥沃な土地に美味しい野菜ができた。ダムが出来てからは洪水がないので、野菜もまずくなった」とアミーラさんは言っていました。

9時にチェックアウトして、まっすぐカイロ空港に向かいます。
私たちはまたポンドを使い果たして、残ったのはトイレのチップ代として50ピアストルが2枚だけ。
「それしかないんですか〜」とまたまた、アミーラさんに驚かれました(笑)
アミーラさんとは、メルアドを交換して別れました。
ほんとに一生懸命で知識と教養のあるガイドさんでしたから、とても勉強させてもらいました。


(バンコク空港の果物屋さん)
カイロ空港を発ったのは、お昼の12時半。
またエジプト航空で、バンコク、マニラ経由で成田に着きます。
機内から地上を見下ろすと、アラビア半島の砂漠は、くっきりと見えます。
雲がかかって、よく見えないところは海の上でした。
なるほど、雨が降らない砂漠の上だから雲がないんだ、と単純なことなんですが妙に納得してしまいました。
おそらくイスラム教徒であろうアジア人(タイ人ではなく中国人っぽい)のおじいさん、おばあさんの団体さんがバンコクまで一緒でした。
飛行機に慣れてないらしく、好き勝手な席に座るわ、シートベルトのサインが出てる間もうろうろ歩き回るわ、トイレの使い方を知らないわ、でかなりな騒ぎになってました。
英語もアラビア語も通じず、パーサーさんたちが身振り手振りで注意しています。
バンコクに着いたときは、ほっとしました(笑)
バンコク空港で待っている間に、行きに飲んだ生ジュースが美味しかったので、また飲みに行きました。
注文すると、いろんな生の果物をミックスして、その場でジュースを作ってくれます。
マンゴーピーチという果物も買って食べましたが、固い桃のようでした。
18時間くらいのフライトでしたが、行きより長く感じたのは、「宴のあと」ということですから無理もないですね〜。

成田に着いたのはお昼の1時前。
私たちは千葉市に住んでいますから、2時前には自宅に着きました。
日本そばが食べたいと思っていましたが、近くにおそば屋さんがないので、駅前のラーメン屋さんに入って、まずラーメンを食べたのが、旅のしめくくりでした。
家に入ったら、トイレの電気と換気扇がつけっ放しで、娘も私も自分じゃないと言いましたが、どっちが犯人かわかりません(笑)


【ピラミッドの謎について】

娘が写真をすぐに現像に行って、それを見ながら、思い出話。
ピラミッドはいつ誰が作ったか、やはり不思議だと、熱心に語りあいました。
私は先史文明説、娘は巨人説(笑)です。
20mくらいの身長の巨人がいて、ああいう大きなピラミッドやスフィンクス、巨像をつくったという説です。
小学生なみの発想ですが、やはりあれだけのものを普通の人間の手だけで造ったとはとても思われないので、これも一理あるかも。
宇宙人説というのがあるのだから、その宇宙人が巨人と考えてもいいかもしれません。
私が考えているのは、氷河期の前にすでに現代と同じくらいの高度な文明があったが、自然現象、あるいは核戦争のようなもので人類は絶滅した。
数万年の間に人工の建造物は全て崩壊し消滅したが、自然の石で作られたものだけが残った。
わずかに生き残った人間の子孫が古代エジプト人で、すでにあったピラミッドなどを、ファラオが自分の権力の象徴として、自分が造らせたものとした。
エジプト人は残っている像を真似た格好をするようになった。
氷河期の前には恐竜という巨大な動物がいたくらいだから、先史の人間が巨人ということもありえる、と娘の巨人説を取り入れたところ、喜んでいた娘です(笑)
このようなことを、母娘で話すことができるのも、旅の収穫の一つでした。

きれいさっぱり、今までの人生の垢を落とすことができたような旅でした。
心の中がまっさらになったような、とても軽々としたものを感じます。
これこそ命の洗濯というものなんでしょう。
この言葉、『心』の洗濯ではなくて、『命』というところが、深くて鋭いなあと思いますね。

(スフィンクスの正面から見る三大ピラミッド)  



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